申し訳なかったです(2001-05 )

パリ和平協定が1991年に調印され内戦が終わりましたが、2001年5月に初めて訪問したカンボジアは、人心の荒廃も激しく、復興が進まず人々の生活は貧しく、特に地方の州では極貧状態でした。その上内戦の影響で各家庭ではまだ戦争で使った銃や手りゅう弾を持っていました。治安も悪く、各州には州を守る軍隊が駐屯していました。
外国の支援組織の人々は「太陽が出たら支援活動に出かけ、太陽が沈む前にホテルに戻れ、支援活動は日中だけ!」と言われていました。

そんな中、訪問した政府の役人を通して「コンポンチュナン州に学校を建てて欲しい」との依頼がありました。プノンペンでの予定が詰まっていた私は、深く考えずに「今回は行くことが出来ないので、村人や校長先生が来て説明して欲しい。」と言ってしまいました。(カンボジアの惨状は頭にあったはずなのですが、現実には日本の生活が頭に在って、言ってしまったのです。)

5月某日、村の長老8人がプノンペンに出てきたのです!!
「よくプノンペンに出て来られましたね?!」と聞く私に
「村人は誰も車を持っていません。知り合いの、また知り合いの、そのまた知り合いの人を頼ってその人の車で来ました。プノンペンに住む空港職員で、私たちは誰もその人を知りません。1台に8人が乗ってきました。6時間かかりました。」と疲れた顔で話してくれました。
洗いざらしの茶色くなった肌着1枚にズボンを穿いて。上着など誰も着ていません。8人の中には裸足の人も居ました。皆50歳以上の村の長老たちです。
「有難う、ありがとう!本当にありがとう!申し訳なかったです。」と私。

「私の村は貧しくて、子どもを学校に通わせずに畑で働かせる家が多いです。
「村人は、『学校に行っても何の役に立たない。』と思っています。」
「私たち長老は、お寺の祭りでお金を集めて、村で最も貧しい家にお金をあげて、子どもを学校に通わせるように話しています。」
「入学しても、子どもは1年間も通わずに学校を辞めてしまいます。」
「木造の校舎は、木が腐ってボロボロです。」
「屋根はトタンが腐って雨が漏ります。雨が降れば学校は休みです。」
「内戦前に私たちが建てた木筋コンクリート校舎は、ポルポト軍に壊されました。」
「私たちは、教育は大事だと思っています。」
「子どもに教育は必要です。子どもに教育を受けさせたいのです。」
「村に学校を建ててください!!お願いします。」

長老たちの熱意に心を打たれました。
長老たちの誰も自分の名前も書けませんでした。
その後、村の学校調査に3回行き、長老・学校の先生・村人と話し合いを重ね、2001年10月、校舎建設が始まりました。

店の明かりは戦後の闇市(2001-05)

私のカンボジア支援 -その2プノンペン市内事情-

迎えの車で市内を走って驚いた。街が暗い。
電力不足で年中停電だという。
商店はと見ると「あぁっ 懐かしい!日本の戦後の闇市にあった明かり。
アセチレンガスを燃やして作る明かりがプノンペンにもあった!」
「燃えるときに出るカーバイトの匂いも懐かしい。」
連なる店の何処もアセチレンガスの明かりでした。
昔の日本がここにありました。

土埃の舞うガタガタ道の際には屋台の食事店が立ち並び、土埃の中で夕食をしている人が沢山いました。
土埃の舞う道端では、むき出しのフランスパン?を売っていました。
パンを叩いて、溜まった土埃を払って食べると聞きました。

車は古い、夜でも暑い。クーラーは効かない。
土埃は酷くて窓は開けられない。交通信号が1ヶ所もない、
暗いプノンペンの街を走ってホテルに向かいました。

2001年には、プノンペンには営業しているホテルは少なかったです。
内戦の後、今ある高級ホテルの多くは荒れ果てたままでした。
料金が高いホテルには泊まれず、中級の安いホテルを探しました。
中級の下に属するホテルでしたが、まあ良いホテルでした。
朝食付きで30$くらいだったと記憶しています。

このホテル、3回目のカンボジア調査でも泊まろうとしましたが、火事で燃えてしまいホテルはありませんでした。
実はこのホテルの地下は麻薬工場で、カンボジア警察が急襲した折に火災が発生し全焼したそうです。合わせて10日間程泊まりましたが、地下で麻薬を作っていたとは全く知りませんでした。

初めてのカンボジア(2001-05)

私のカンボジア支援 -その1プノンペン空港-

2001年5月、成田からタイ経由でカンボジア・プノンペン空港に降り立った。
タラップの下に、日本ならとっくに廃車になっているような古い塗装の剥げたバスが、真っ黒い煙をまき散らして迎えに来た。
プノンペン空港は、まだ建設中でトタンの板張り。
建物に入り入国検査を受ける。

迎えの車を待つ間、空港内にあった薄暗いコーヒースタンドで待つことにした。
若いボーイさんが得意げにカップを拭いているが・・・その布巾と言ったら真っ黒で、日本の雑巾のほうがはるかに白くて清潔だ。
とてもコーヒーは飲む気がしない。

水も不安だ。
缶コーラを飲むことにした。電気冷蔵庫が無いので生ぬるい。
缶に付いた土埃をティッシュで何回も拭き取り、ストローをもらって飲む。
そのストローも清潔か不安だが、そこまでは気にしないことにした。

腹がすいたのでパンを買った。
サランラップで包んだパンが有ったので、清潔だと思ったのが失敗だった。
パンを半分に割ったら、薄暗くて良く解らなかったが青いものが入っていた。
小豆が入っていると勝手に思って半分ほど食べて、何だか変だな?と気が付いた。
明るい日の元で見ると、青いカビがパンの内部に団子状に固まって生えていた。
「しまった!」と思った!がもう遅い。
夜中に下痢が始まった。

こうして私の第1回カンボジア調査は始まった。